室町時代の船橋についても、後期の戦国時代に至るまでは、まとまった史料は残されていません。
『舟橋文書』(船橋大神宮旧蔵文書写)には応永6年(1399年)の「千葉満胤寄進状」が収められていて、天照大神へ満胤が寄進した土地の四境が記されていますが、現在の専門家はこれを偽文書の可能性が大きいと考えています。
室町時代前期の市内の村名の見えるものとしては中山法華経寺関係の史料等があり、やはり神保郷に関するものがほとんどです。「日尊譲状」(応永4年)には小室町、「千田道胤売券」(応永6年)にはふるまかたの村(車方かと思われる)、「日経譲状」(応永17年)には大神保村の名がそれぞれ見えます。これらの史料は、室町前期には、依然として千葉氏の一族と家臣たち等が神保郷の村々に所領を有していたことを示しています。そのうち「千田道胤売券」だけは異質な内容です。これは千田道胤が銭32貫文の本銭返しで、ふるまかた村内の田畑を売却したときのものです。(本銭返しとは、ある期間内に買主に代金を返せば、田畑を買い戻すことができるという、当時の売買方法です。)
なお、「日尊譲状」には船橋殿という言葉が見え、意富比神社の神主家をさすかとも考えられますが、確証はありません。
その他に、「香取造営料足納帳」には神保郷以外の村名も見えます。原越前入道(不詳)の所領として、小栗原の名が記されているのです。これは地名変更で本中山となった旧小栗原村のことかと推定されます。