房総の勢力交代

 千葉氏が内紛を起こして大きく後退していった15世紀半ばから16世紀半ばにかけては、船橋市に関する史料がきわめて少ない時代です。この期間に世は戦国時代に突入し、房総では里見氏や武田氏の台頭、小田原北条氏(後北条氏)の進出があり、第一次国府台合戦が起こりました。
 安房の里見氏が台頭し始めたのは15世紀末から16世紀前期で、ちょうど房総の勢力交代の時期に当たり、上総でも甲斐武田氏の一族である武田氏が勢力を広げました。また折しも海を越えた相模では、北条早雲が三浦半島までを手中に収めました(永正13年・1516年)。
 第一次国府台合戦は天文7年(1538年)、南関東一帯に勢力を拡大しようとする北条氏綱軍と、小弓城(千葉市)を拠点に関東制覇を狙う足利義明と味方の里見義尭連合軍が戦ったものです。この合戦は北条軍の勝利に帰し、足利義明は敗死しました。しかし里見方は痛手も少なく、まもなく勢力を盛り返します。そのころの下総西部は、千葉氏の「執権」と称された原氏が最大勢力でした。
 

国府台合戦図(錦絵・船橋市西図書館蔵)

 
 この時期の船橋に関する史料は3点ほどしか知られていません。一つは『本土寺過去帳』に「山倉高城雅楽助名法妙助中野ノ城之落棄ニ路次ニテ死スル処諸人成仏得道 寛正六乙西四月船橋陣ニテ打死」とあるものです。しかし、寛正6年(1465年)に船橋近辺で戦闘のあったことは知られておらず、高城雅楽助も未詳です。
 二つめには『舟橋文書』(84ページ参照)中の「胤縁判物」という古文書があります。文亀4年(1504年)に胤縁が臼井・印西両荘からの供物を、舟橋天照宮へ相違なく納めるというものです。胤縁については未詳ですが、やや勢力を回復していた臼井氏関係の人物であろうかと想定する説があります。
 三つめは夏見長福寺の聖観音の胎内銘です。これは市文化財でもある聖観音を修理した際発見されたもので、この像が天文5年(1535年)に造立された時の関係者の名が墨書きされています。その中に造立費用を出した「旦那」として「夏見豊島勘解由左衛門尉平朝臣胤定」という名が見えます。この人物は文明9年(1477年)太田道灌に石神井城を追われた、豊島氏の子孫か名跡を継いだ人物と想定されます。
 

夏見長福寺の聖観音(非公開)

 

聖観音の胎内銘。平成2年の解体修理の際に発見されました