戦国武将高城氏と船橋

 永禄7年(1564年)に第二次国府台合戦が起こりました。再び北条氏康の率いる後北条軍と里見義弘の里見軍が激突したもので、またも後北条軍の勝利に終りましたが、里見氏は相変らず存続します。
 そのころ、小金を拠点として西下総に台頭したのが高城胤辰です。高城氏の台頭とともに船橋に関する史料が急に多くなります。高城氏が船橋大神宮にあてた文書が書き写されて伝わっているためです。
 高城氏の出自については江戸時代の由来書に”先祖は千葉胤宗の孫胤雅で、肥前国高城村の出なので高城を名乗り、後に下総に移った”とありますが、近年の研究では疑問視されています。しかし、戦国末期には高城氏は原氏の家臣から後北条氏の家臣に転じ、勢力を振るっていました。
 高城氏と船橋に関する史料は8点あり、初出は元亀2年(1571年)の「高城胤辰判物」です。これには“船橋大神宮は我が先祖から信仰しているので、万事介入をせずに来た。ところが近年宮内での争論が度々に及ぶので、自分が裁定を下すことになったが、以後は宮内で掟を作るべきである。もしこの旨に背く者があったら報告しなさい”との内容が書かれています。
 その2年後には同じく胤辰が“船橋六郷内の地頭・代官から百姓に至るまで、大神宮の祭礼その他に害をなす者は追放する”旨の判物を大神宮神主に与えています。
 これらから胤辰が、新たに勢力下とした船橋地方について、大神宮にはある程度の自治を認め、ほかには自分が地域の公権力として厳しく臨む態勢をとったことがうかがえます。