小田原北条氏の滅亡

 戦国時代後半、関東で最も勢力を広げたのは、小田原の北条氏(後北条氏)です。92ページで紹介した高城氏も、北条氏に味方する中規模勢力の戦国武将でした。
 ところが、北条氏の勢力が最も広がったころ、中央では全国統一の動きが進んでいました。まず織田信長が畿内と周辺を統一し、その死後は豊臣秀吉が引き継ぎ、中国・四国・九州を次々と支配下に置き、残すは北条氏の関東のみとなりました。
 北条氏政・氏直父子は、京都へ上って臣下の礼をとるようにという秀吉からの要請を拒否し、秀吉軍の来攻に備えて城を増強し、さらには天正17年(1589年)に動員令を発して、小田原に参集するよう命じました。その人数は千葉介の連合3000騎、臼井の原氏2000騎、小金の高城氏700騎など、計3万4000騎余りに上りました。
 
小田原北条氏略系図

 
 天正18年3月、秀吉は小田原城攻撃のため諸大名に出陣を命じ、4月には伊豆に陣を敷いて物量に物をいわせた包囲作戦を展開しました。その間、北条軍からは脱落者も出て戦況は全く不利となり、7月5日についに降伏しました。
 これより先、4月から6月にかけて、秀吉は配下の浅野長政・木村高重等を、家康は本多忠勝・鳥井元忠等を房総に送り、北条方に属する諳城を攻撃させました。主力を小田原に送っている上、圧倒的な攻撃軍を前にした諸城のほとんどは、戦わずして降伏したといわれます。まして前章で記した市内の城などは、攻撃の対象にもなっていなかったと考えられます。
 この小田原北条氏の滅亡により、それに味方した千葉氏や高城氏も運命を共にし、活躍の幕を閉じました。船橋市内にあったような小城の主は逃亡したり、土着して帰農したのでしょうが、その点については全く不明です。