移封後の家康は民心の掌握にも意を注ぎ、有力な寺社に土地を寄進したりしました。市内では天正19年に船橋大神宮(意富比神社)に、土地を寄進しています。
また家康は内治の一環として街道の新設と整備にも力を入れたので、房総でも新設・整備された道があります。そのうち、船橋に関係の深いのは御成街道(東金街道)と佐倉街道(成田街道)です。しかし、江戸初期までの佐倉街道については史料に乏しく、わずかに大まかな道筋が知られるぐらいです。一方、御成街道についてはやや史料が多く、造成の年やいきさつが知られています。
御成街道は家康の命を受けた佐倉城主土井利勝が、新道沿いに当たる村々に分担させて造成したものとされています。通説では命を受けたのが慶長19年(1614年)12月12日で、翌年の正月9日に家康一行は東金に至っているので、たいへんな突貫工事で造成したことになります。しかし、これには異説もあって、分担を通知し、測量を含めるととてもIか月足らずで造成するのは無理で、数か月はかかったとしています。つまり、家康が最初に東金に行った時は、御成街道はなかったという説なのです。
現在の御成街道。船橋から下総台地をほぼ直線に貫いて東金に至る道です
いずれにしろ、家康は東金へは2度遊猟に赴き、2度目の帰途の元和元年(1615年)11月25日には、宿泊休憩所として作られていた船橋御殿(本町4丁目)に泊まっています。ところが、家康が泊まった夜中に船橋は大火に見舞われてしまいました。『騎府記』には御殿は無事だったが、通りは残らず焼けたとあります。この火事については、家康を殺そうとして放火したものだという話や、その時に家康が銃で撃たれたのを、船橋大神宮の神主が助けたという話が伝わっていますが、あくまでも伝説のようです。
船橋御殿は4代将軍家綱の時代ごろに廃されたといわれ、間もなく跡地に家康をまつる東照宮が建てられました。現在の東照宮は幕末ころの建立といわれ、市の文化財(史跡)に指定されています。
なお、船橋大神宮内の常盤神社は家康等をまつり、家康の歯を納めた家康木像が安置されているといいます。
本町4丁目にある東照宮。船橋御殿の中心だった所に建てられたといわれています