成瀬正成は永禄10年(1567年)ころ、三河国(愛知県)で生まれました。小牧・長久手の戦いで初陣を飾り、小田原攻略の時にも武名を上げ、家康が関東に移ると、栗原地区に土地を与えられたのです。系図によると正成の叔母の夫・藤村四郎兵衛という人物は、戦国時代に印内村付近の領主であったが浪人して三河国へ來たとありますが、その関係で正成が栗原の土地を与えられたかどうかは不明です。
正成は関ヶ原合戦(慶長5年・1600年)でも武功があり、同年に堺の行政官の一人とされて治政にも実績を上げました。慶長12年には駿府執政となり、同15年に家康から請われて家康の九男義直の後見人となり、草創間もない尾張徳川家のために尽力しました。元和3年(1617年)には犬山城を預けられ、文字通り将軍家の意向で就任した御付家老として、尾張藩で重きをなしたのです。
成瀬正成が城主となった犬山城。現存最古の城ともいわれています
正成は寛永2年(1625年)に死去し、本郷の宝成寺(西船6丁目)で荼毘に付され、やがて日光の家康廟の近くに改葬されました。
正成には正虎と之成の男子があり、兄・正虎が犬山の家を継ぎ、之成は正成生前に栗原ほかを与えられていました。之成は慶長元年の生まれで、秀忠の小姓を務め、大坂の陣で武功を上げ、元和2年に家督の一部を譲られて1万4000石の大名となり、間もなく1万6000石に加増されます。しかし、之成は寛永11年に39歳で没し、跡はまだ1歳の之虎が継ぎました。ところが之虎は同15年に数え5歳で夭折し、栗原藩成瀬家は断絶してしまいました。この之成・之虎とも宝成寺に葬られ、今も墓碑が残されています。
成瀬正成肖像(宝成寺蔵)
一方、犬山成瀬家は3万5000石の犬山城主として存続しましたが、尾張藩御付家老という立場上、公式には大名ではない特殊な存在でした。明治維新の際、新政府から正式に藩として認められて大名の列に入りましたが、明治4年(1671年)に廃藩置県となったので、わずか3年余りの”大名”だったのです。
さて、之虎死後の栗原地区は幕府代官支配地とされ、成瀬氏とのつながりはなくなりますが、犬山成瀬家は以後も宝成寺を江戸における菩提寺の一つとしたので、墓の一部がここに営まれました。之成関係の墓と犬山家関係の墓は20基近く残され、市の文化財に指定されています。