船橋市域の支配者

 江戸初期の市域の支配者は成瀬氏を除くとよくわかっていません。大神保・八木ヶ谷が臼井藩酒井家領分であったらしいこと、金杉が秋山氏の知行地だったらしいこと、宿場(船橋宿)周辺が代官支配地であったらしいことが想定されるくらいです。
 市内の江戸時代の村数は40余りですから、大半の村については江戸初期の支配者は不明ということになります。
 元禄年間の西暦1700年ころになると、各村の支配者がだいたいわかっています。それを大まかにまとめると次のようになります。
▽主に代官支配地
九日市 海神 西海神 山野 印内 古作 寺内 本郷 二子 小栗原 前貝塚 七熊 米ケ崎 神保 滝台 前原 丸山 藤原 上山 行田(※西海神~小栗原を栗原ハケ村と呼んでいました)
▽主に旗本知行地
小室 大神保 八木ケ谷 小野田 車方 金堀 楠ヶ山 大穴 古和釜 坪井 三山 田喜野井 下飯 山満 高根 金杉 東夏見 西夏見
▽その他
五日市 上飯山満 行々林
 「その他」のうち五日市は代官支配地のほかに与力給知と意富比神社領、上飯山満は9人の旗本と代官の分割支配、行々林は旗本知行地と与力給知でした。
 そして旗本知行地の村でも、江戸時代に開墾した場所(新田分)は、幕府代官支配地とされましたし、小栗原のように旗本知行地から代官支配地に替わった例もあります。また旗本知行地の村のうち、小室・小野田・八木ヶ谷・田喜野井・金杉・東夏見・西夏見は複数の旗本の分割支配でした。
 このように、江戸時代の船橋地域の支配構造はたいへん複雑でした。大名の領分は初期にあっただけで、中期以降は存在しませんでした。また一人の旗本の知行地はあちこちに分散しているのが普通でした。ですから、代官支配地を除くと”おらん家の殿様と隣ん家の殿様は別の殿様”という例も多かったようです。