検地と石高

 江戸時代の現市域の村数は40前後ですが、宿場と漁師町を除くと、他はすべて農村で した。当時の農村は幕藩体制の経済を支える基盤であり、農民は年貢を納めることを第一の責務とされた存在でした。その年貢上納の前提として行われたのが検地です。
検地は領主側が農民の生産力を掌握して、年貢(租税)の賦課高を確定するために、村ごとに田畑屋敷を測量調査したものと定義づけられます。検地の結果は「検地帳」に書き記されます。
一般には検地というと、豊臣秀吉が行わせた太閤検地が有名ですが、市域では当時の検地帳は見つかっていません。現存する初期の検地帳は、慶長7年(1602年)に実施された神保郷(大神保村)と八木ヶ谷村のものです。
当初の検地は領主によって基準が異なるなど、一律ではありませんでしたが、寛永年間(1620~30年代)に幕府が作成した検地条目が全国に普及していったといわれています。
 寛文~元禄年間(1660~90年代)には、改めて大がかりな検地が行われ、市域でもその時の検地帳の写しが、いくつかの地区に残されています。
 

検地の図(『徳川幕府県治要略』より)

 
 さて、実際の検地はどのように行われたでしょうか。検地にあたって任命された検地総奉行の統括の下、配下の下級役人が何人かで組になり、各村々から案内人を出させて行ったというのがその答えです。基準単位は1間(約180センチメートル)四方が1歩(坪)、30歩で1畝、10畝で1反、10反で1町とされ、土地一筆ごとに印を付けた水縄や間竿で測量し、かつ土地の等級をつけたのです。
 土地の等級は上田・中田・下田・下々田、上畑・中畑・下畑・下々畑等と表され、それぞれ1反当たり米がどれだけとれるか決められましたが、それを石盛といいます。畑や屋敷地も米に換算して表したのです。
 現在知られている市域の石盛は下表の通りですが、これで知られるように、同じ等級でも村によって1反当たりの仮定生産高は異なっています。かつては石盛がその村の地味の良し悪しの目安と考えられていましたが、現在では石盛は現実を反映したものとはいえないとする考えが有力です。検地が完了すると、その村の石高(村高)が決定します。
 

石盛表(単位=斗)