江戸時代の年貢は個人ではなく、村に対して課せられます。仮に村高400石の村で、その年の年貢率が五公五民であれば、200石の玄米をおさめなければなりません。村の中での各家ごとの負担量は、原則として検地の結果の持ち高に応じて割り当てられました。
年貢納入の実際は、秋の収穫期近くになると役所(幕府代官所や地頭用所等)から、年貢割付状が村に届けられます。この書類には年貢量とその内訳、納入期限等が書かれてあり、代官や用人の署名・捺印がしてあります。これに基づいて村役人(名主・組頭・百姓代)が会議を開き、何日もかけて各家の分担量を決めます。水田の分は米、畑・屋敷の分は金銭で納めるのが原則です。これは本途物成と呼ばれる正税で、ほかに小物成と呼ばれる雑税や、幕領では高掛三役と吁ばれる税も納めなければなりません。年貢は2~3度に分けて納入しますが、普通は名主宅の庭に集め、村の責任で指定の場所まで運搬します。年貢を完納すると役所から「年貢皆済目録」が交付されます。
大神保村の年貢割付状(部分)文化5年(1808年)
ところが、村の中で働き手が病気の家や、夜逃げしてしまった家等があると大変です。その分は村の責任で補わなければなりませんので、五人組の家や親類等が犠牲的に代納しなければなりませんでした。
農民の負担は年貢だけではありませんでした。労働力もまた課役とされました。河川の堤防普請や道路普請が一般的なものですが、当地方では幕府馬牧場の土手普請も課せられました。その人数や量は村高100石につきいくらいくらと割り当てられるのが普通でした。
そういう工事の際の労働にも増して負担の大きかったのは、幕府役人や大名の通行に際して、宿場へ人馬を提供させられる助郷役でした。宿場と助郷のことは船橋の歴史にとって重大な事項なので、項を改めて紹介することにします。
以上のように、江戸時代の農民は「士農工商」の身分の順とは裏腹に、年貢・諸役の担い手として最も厳しい生活を強いられていたといえます。しかし、年貢納入が村の連帯責任であったことから、村は一体との認識が生まれ、それは後々まで日本人の生活意識に、強い影響を残しているといえるようです。