船橋は房総屈指の宿場として繁栄しますが、その理由は言うまでもなく当地が、房総三国・常陸東南部から江戸へ向かう街道が集中する、交通の要所に位置しているためでした。千住から小岩・市川を経て来る佐倉道(成田道)が、海神で行徳道と合流し、一方船橋大神宮下では千葉方面に向かう上総道と分岐しています。さらに佐倉道は前原で御成道(東金道)とも分岐しています。つまり船橋は、江戸湾岸最大の街道集中地点だったので、旅行者でにぎわったのです。
旅籠屋(旅館)の数を見ると、寛政12年(1800年)に22軒、文化15年(1818年)に25軒、天保元年(1830年)に29軒と増加しています。そのほかに幕府公用の上級役人と大名が泊まる本陣も1軒ありました。また、商家の数も九日市だけで60軒近くあったので、初めて江戸に行く者が船橋宿に入って、「はや、江戸に着きけるよ」と勘ちがいしたという逸話が伝わっています。
幕末の船橋宿(『成田名所図会』より)