伝馬継立と助郷

 宿場というのは単に旅館があるというだけの所ではありません。伝馬継立の仕事に従事する者がいて、その御用のための役所(問屋場)が置かれた場所でもあります。伝馬継立というのは公用の旅行者と荷物を、次の宿場まで無料で運ぶ制度です。伝馬を使役する場合は、前もってその用務、馬数、人足数を記した証文を伝馬役所から出し、宿場ではそれに従って人足と馬を用意しました。ただし、証文の人足数で足りない時は賃銭を払って人馬を雇います。それを御定賃銭といって公定の額で、これもあらかじめ数を宿場に通達しました。この御定賃銭は一般の人馬賃銭に比べると低額で、宿場にとってはかなりの負担でした。大名の参勤交代の時は一定数だけ御定賃銭で払い、残りは問屋場と交渉して相対賃銭を支払いました。相対賃銭は御定賃銭の倍くらいでした(一般の旅行者は伝馬継立とは無縁で、馬方や駕籠かきと交渉して乗るしかありませんでした)。
 

『東海道中膝栗毛』で有名な十返舎一九の作品『金草鞋』のさし絵に描かれた船橋の旅籠

 
 なお、船橋宿の寛政5年ころの御定賃銭は左表のとおりです。
 

船橋宿御定賃銭

(本馬は40貫ほどの荷を積む。半馬は『船橋市史前篇』によると人一人と荷20貫までを乗せた馬とある。軽尻は人一人と荷5貫目までのもの)
※1貫は3.75kg
 
 また、船橋宿では、人足15人と馬15頭までは公用の通行者に提供しましたが、それを超えた時は助郷村と称する近隣の村々へ人馬の用を申し渡しました。助郷は制度化されたもので、村々ではそれを拒むことはできませんでした。しかも、この制度は近隣村々からすると、いつ人馬を提供するか不定であり、農繁期と重なったりすることもあってたいへんな負担でした。そのため、時代が下ると次第に遠方の村も加助郷、当分助郷等という役目を負わされるようになります。しかし、新規に助郷村に組み入れられることは負担の増加となるので、何とかそれをまぬがれようと、宿場との間で訴訟ざたになることがよくありました。五日市村対高根村、九日市村対西海神村外6村、九日市村対上山新田・藤原新田の例等です。農村にとっては助郷の負担は年貢に次ぐものでしたから、訴訟を起こしてでもその軽減を願ったのです。