『東海道中膝栗毛』で有名な十返舎一九の作品『金草鞋』のさし絵に描かれた船橋の旅籠
なお、船橋宿の寛政5年ころの御定賃銭は左表のとおりです。
船橋宿御定賃銭
(本馬は40貫ほどの荷を積む。半馬は『船橋市史前篇』によると人一人と荷20貫までを乗せた馬とある。軽尻は人一人と荷5貫目までのもの)
※1貫は3.75kg
また、船橋宿では、人足15人と馬15頭までは公用の通行者に提供しましたが、それを超えた時は助郷村と称する近隣の村々へ人馬の用を申し渡しました。助郷は制度化されたもので、村々ではそれを拒むことはできませんでした。しかも、この制度は近隣村々からすると、いつ人馬を提供するか不定であり、農繁期と重なったりすることもあってたいへんな負担でした。そのため、時代が下ると次第に遠方の村も加助郷、当分助郷等という役目を負わされるようになります。しかし、新規に助郷村に組み入れられることは負担の増加となるので、何とかそれをまぬがれようと、宿場との間で訴訟ざたになることがよくありました。五日市村対高根村、九日市村対西海神村外6村、九日市村対上山新田・藤原新田の例等です。農村にとっては助郷の負担は年貢に次ぐものでしたから、訴訟を起こしてでもその軽減を願ったのです。