宿場は人の通行のための機能を主眼に設けられたといえますが、一方で物資の輸送を主にして発達しだのが港と河岸です。大きな荷物、重い荷物の輸送は馬の背だけでは限度があり、また宿場ごとに積み替えていたのでは非能率的です。その点船だと馬数十~数百頭分の荷物を1艘で運ぶことができ、しかも宿場ごとに積み替えるという手間が省けます。
船橋では海老川橋下流の東岸に海運業者が並び、穀物・薪炭等の輸送に従事していました。元禄15年(1702年)にはすでに4軒の業者があり、江戸後期には6~10軒の業者が営業しており、一時は佐倉藩の米を江戸に輸送していたこともあります。この海運業は幕末~明治前期にはいっそう盛んとなり、一時は40軒もの業者が営業をしていました。
以上のように船橋は江戸時代に成田道最大の宿場として繁栄し、周辺きっての繁華な所となりました。また海運業によって物資の集散地として発展する下地が作られたのです。