御菜浦と占有漁場

 御菜浦というのは、将軍家の台所に魚介を献上する浦のことで、特に有名なのは芝浦や品川浦等の御菜八ヶ浦と呼ばれた浦でしたが、船橋浦も現在の京葉地区で唯一の御菜浦でした。船橋浦が御菜浦となったいきさつについては、天明元年(1781年)の願書に「恐れながら権現公様(家康)上総国東金村へ御成につき、当村内に新御殿御造立これ有り、右御成還御(往復)共、右御殿へ御入り成らせられ候節、御菜御肴献上仰せ付けられ」と記しています。慶長19年(1614年)に、家康が東金遊猟の往復に船橋御殿を利用した際、魚の献上をおおせつけられたというのです。
 

江戸時代の船橋浦周辺(『下総国地理之図』より)

 
 船橋浦の献上御用については、元禄16年(1703年)の『御菜御肴差上通』という記録が、わずかに1冊分残されていますので、一部を抜き出してみましょう。
 
 九月廿五日        同日           同日
一 石かれい 三枚    一 こち   弐本    一 石かれい 三枚
一 こち   弐本    一 石かれい 三枚    一 こち   弐本
一 きす   十五    一 いな   十弐    一 きす   十五
一 いな   十     一 きす   十弐    一 いな   十七
 同日                        右三回分地引あみより差上申候
一 こち   弐本
一 石かれい 三本
一 いな   十三
一 きす   十五
 
 これが1日分で、月に6日、江戸城近くまで運上したといいます。記録に見える魚の種類は石ガレイ、コチ、イナ、藻ガレイ、キス、ナヨシ、ハタ白、ホウボウ、アジです。
 

献上魚について書きとめた『御菜御肴差上通』

 
 船橋漁師は右のような魚介献上の御用をつとめるかわりに、広大な漁業を占有することを許されていました。その範囲は、東側は鷺沼(習志野市)前面の落の澪、西側は湊(市川市)と猫実(浦安市)の前面の貝ヶ澪で、沖は船の櫂の立つ所までとされ、扇形に広がるものでした。