元禄16年11月22日、東海・関東を襲った大地震のために、船橋沖の海底に異変が起きて不漁続きとなってしまい、やむなく将軍家への鮮魚献上を、金銭代納に変更してもらうはめになってしまったのです。
それ以後、船橋漁師の占有漁場境界近くは、密漁者に荒らされることが多くなります。他浦の漁師からすると、金銭納めなら自分たちと同じではないかという意識が働くようになったものとみられます。
そのため、地震後40年ほどして、船橋漁師は幕府に対し、魚も戻って来たので昔のように鮮魚献上にしてほしいと願い出ましたが聞き届けられず、相変わらず紛争が断続的に続きました。
漁場紛争はさまざまな悲劇を招きましたが、中でも文政7年(1824年)の、三番瀬の貝漁をめぐる紛争では、船橋漁師総代が入牢させられて獄死するという事態になりました。現在でも本町不動院で行われる「大仏追善供養」は、その供養に起源を持つとされています。
文政8年(1825年)から毎年正月28日(明治以降は2月28日)に行われている大仏追善供養。漁師たちが1日休業して、大仏に白米のご飯を盛るようにつけながら供養します
そのほかに、水田の肥料とするキサゴという貝の採取についても、農村との間で紛争があり、何度か協定を取り交わしています。