現在残されている古文書は漁場紛争に関するものがほとんどで、漁師町の状況や漁法の史料はごく少量です。
まず、漁師町についてですが、漁師町は行政区画では九日市村に属します。その西に続くのが海神村の山谷集落で、この両地区が漁業地帯です。寛政12年(1800年)の数字では、九日市村は家の数505軒のうち漁師町が約300軒、海神村は家数179軒のうち漁師70人とあります。
次に漁法については、弘化5年(1848年)の九日市村の記録に、六人網、手ぐり綱、打瀬網、投網、うなわ網、ばか捲き(貝漁)、縄船(釣漁)等の名が記されています。しかし、船橋浦は漁法の種類の多いことで知られた所ですから、実際には内湾で行われていた漁法の大半を行っていたと想定されます。当時は春~秋が魚漁、冬が貝漁で、まだ海苔養殖は行っていませんでした。
以上のように、江戸時代の船橋浦は内湾有数の漁業地帯で、漁師町も近隣最大の人口密集地でした。そして船橋漁師は御菜浦の漁師としての誇りを持って、豊饒の海で魚を追っていたのでした。