野馬土手と木戸

 牧場の馬は完全放し飼いなので、食糧の乏しい冬などは逃げ出して周辺の村々の作物を食い荒らすこともありました。そのため牧場と村の境には高い土手や深い堀を作って、馬が逃げ出すのを防ぎました。また、牧場を横切る道の出入り口には木戸(門)が設けられ番人が置かれていて、人が通行する時だけ開けられました。
 

旧大穴・楠ヶ山境の野馬堀(大穴北5丁目)

 
 以上のように、市域中央の台地は幕府の牧場の一つで、300頭前後の馬が放し飼いになっていました。周辺の村々には多少の負担がかかりましたが、馬牧は江戸近郊の珍しい情景でもあり、錦絵や紀行文に作品が数多く残されています。
 

初代広重の描いた「下総小金原」

 
 現在では牧場時代の遺構も、土手や堀がわずか何か所かに残っているだけですが、ひとたび視点を変えると、現在の人口最密集地帯はかっての牧場跡であることが知られます。これは牧場となるような平たん地の利点が生かされた結果であると思われます。