下総薬園の開設

 下総薬園は、享保7年(1722年)に馬牧の一部を割いて開いた幕府の薬草園です。
 それでは、なぜこの時期に幕府は薬園の設置を企てたのでしょうか。その最大の要因は財政問題にあるようです。江戸前期には薬種の草木等は、中国から大量に輸入していましたが、元禄年間ころから幕府財政が急激に悪化すると、国内産に切り替える必要が叫ばれはじめました。江戸には既に駒場と小石川に御薬園がありましたが、それよりはるかに広い薬園を下総台地の小金原に作ることが新しく計画されたのです。
 

下総薬園の範囲の想定図(明治42年の地図に記入)

 
 享保7年4月4日、下総薬園の開設が正式に決定し、幕府御医師並丹羽正伯と薬種商桐山太右衛門に、管理運営について指示が出されました。それには、両人に各15万坪の土地を貸与するので、若干の薬草を幕府に納め、残りは市中に販売するようにとあります。そして15万坪のうち2~3万坪は生活の糧のため畑として耕作することを認め、また丹羽正伯の方が身分が上なので、万事桐山を指図するようにとも言っています。その二人の略歴を述べておきます。
 丹羽正伯は元禄4年(1691年)に伊勢国松坂(三重県松阪市)の医師の家に生まれました。京都に出て医学を学び、また本草学者稲若水(初め稲生若水)の門に入り、採草、製薬等の技法を極めたといいます。享保2年に江戸に移りますが、これは8代将軍吉宗に呼び寄せられたともいわれます。享保5年には幕府の採薬使となって、箱根や甲斐・信濃で薬草を採集しました。享保7年4月1日御医師並に任命されて、直後に下総薬園の管理を任され、その後は幕府の命により、本の編述や、和薬種改会所の指導、薬種の真偽の吟味に尽力しました。正伯は宝暦6年(1756年)江戸に没しましたが、死後100年余り経た万延元年(1860年)に至り、薬園台の人々がその遺徳をしのび、高幢庵(現在の薬円台1丁目)に供養碑を建立しています。
 

丹羽正伯供養碑(高幢庵)

 
 桐山太右衛門は延宝5年(1677年)ころの生まれで、江戸日本橋の薬種問屋でした。薬草について詳しく、やはり諸国に採薬し、また和薬種改会所の設立に尽力しました。下総薬園を任されてからは、この地三山道堀田のサク字松ケ崎という場所に住んだと伝えられます。薬園の管理運営に尽くしましたが、4年後の享保11年に死去し、当地に葬られました。現在墓は高幢庵墓地にあります。