薬草の栽培が行われている様子の想像図(薬円台小学校の案内板より)
また、薬園予定地30万坪のうち、どのくらいの面積が薬草園となったのかも不詳です。というのは、丹羽正伯はこの地に定住したわけではなく、指導のため時々やって来ただけでしたし、現地に居住して尽力した桐山は4年足らずで死去してしまったからです。
そのため、下総薬園は廃されて畑作の新田村に転化しますが、その時期についても現時点では確定できません。古文書・古記録が全く知られていないからです。
一般には正伯が死去した宝暦6年以後に、薬園台新田になると書かれていますが、寛延2年(1749年)に書かれた『葛飾記』には「此辺原地御新田と成る。御薬苑も此所なり。正伯新田とも云」とあったりもして、明確ではないのです。正伯新田というのは薬園台新田の別名で、明治前半までは一般にはこの名の方が流布していたようです。
一方、文献以外の資料では、高幢庵内にある享保16年(1731年)の燭台に「薬園村」とあり、墓地の寛保3年(1743年)の石地蔵には「薬薗台村」とあります。それらの資料をどう解釈するかで、新田村としての成立時期は異なってしまいます。ですから、確実な文献が見つかるまでは不詳としておいた方がよいのかも知れません。
このように、現在の薬円台地区は江戸中期の8代将軍吉宗の時代に、薬草園として開かれ、しばらくすると畑作の新田村となったのでした。そして明治に入ると、隣接する馬牧跡が習志野原演習場となったため、軍隊の影響の強い地区として近代を経過しました。
現在の薬円台は宅地化が進み、畑地は少なくなって、薬草園時代の面影はありませんが、高幢庵墓地の正伯・桐山の石塔の刻文にその歴史をしのぶことができます(「薬園台」から現在の「薬円台」に変わったのは、昭和48年のことです)。
桐山太右衛門の墓