小金原の将軍家鹿狩り

 将軍家の狩りの中で最も規模が大きく、軍事訓練の色彩が濃いのが小金原鹿狩りでした。小金原は幕府馬牧の広がる広大な原野です。この小金原で、江戸中期以後4回にわたって将軍家の鹿狩りが催されたのです。
 第1、2回の鹿狩りは8代将車吉宗によって、享保10、11年(1725、6年)に催されました。鹿狩りの動機としては、一つには泰平に馴れた幕臣の武逆鍛練のためといわれ、また牧場周辺に繁殖して川畑を荒らす鳥獣の駆除のためであるともいわれています。第1回の時には、正月末に狩りの触れが出され、将車の御立場は中野牧の鳥井戸前(現松戸市)と決まりました。狩りの準備としては、獲物や人足の通り逆のため水田や川に板橋をかけたり、野馬土手の一部を崩したりし、本番の狩りには三日前から獲物を追うために、周辺村々から1万人に上る人足が駆り出されました。狩りは3月末に将軍が見守る中、人足に追われた獲物が、矢来を巡らして網を張った狩り場に逃げ込むのを馬上から槍で突いたり、地上で乗り倒したりするものでした。この時の獲物数は鹿800余り、猪3、狼1、雉子10などでした。
 第3回は11代将軍家斉によって寛政7年(1795年)に催されました。1、2回に比べ、はるかに大規模となり、東は銚子、南は上総大多喜、西は江戸川、北は利根川から獲物を追いたて、人足も10万人に上るほどでした。獲物数は鹿130、猪6、狸1、狐4、兎8、雉子2と記されています。
 

寛政7年の鹿狩りを描いた「小金原御鹿狩絵図」(西図書館蔵)

 
 第4回は、12代将軍家慶によって嘉永2年(1849年)に催されました。規模・方法は前回に準じましたが、今回は台地の開発が進んだせいか獲物が少なく、狩り用に前もって捕えた獲物まで放して行いました。
 これらの鹿狩りは、村々の負担でもありましたが、鷹狩りと違って見物が許されたので、当日は弁当持参の見物人が何万人も押しかけて一大見物だったそうです。