塩は人間が最も古くから使用してきた調味料ですが、かつての東京湾は、あちこちに塩浜があって塩焼きの光景が展開していました。
内湾の塩業が大きく発展するのは江戸時代に入ってからで、江戸の人口増加に比例して盛んになります。この内湾塩浜の代表は行徳浜でしたが、これに隣接する船橋市域の西海神浜も、塩浜として知られていました。
行徳浜に代表される内湾の塩業発展の基礎を築いたのは、ほかならぬ徳川家康でした。家康在世中の古文書類はありませんが、明和6年(1769年)に書かれた『塩浜由緒書』によれば、家康はこの地方の塩浜を「御軍用第一の事、御領地一番の宝と思し召され」とあります。家康は慶長18年(1613年)から19年にかけて、葛西や両総で鷹狩りを催していますので、その時に実地に塩浜を見聞したのだろうと想定されます。あるいは、江戸に移ってすぐに行徳周辺の塩浜のことを耳にしていたのかもしれません。
幕府の保護育成はその後も続き、由緒書には2代将軍秀忠から3000両、3代家光から2000両を貸与されたとあります。
江戸時代前期は、行徳塩浜の全盛期で本行徳村、上妙典村、下妙典村等を合わせ200町歩(1町歩は約1ヘクタール)以上の塩浜があったと算定されています。