江戸時代前期の市内の塩浜については史料が乏しく、詳しいことは不明です。従来の諸書は、宝暦6年(1756年)の本行徳村の上申書に、二子・本郷・印内・寺内・山野・西海神等の8村は、江戸初期には塩浜年貢を納めていたが、その後荒浜となって寛永6年(1629年)には、塩浜年貢上納の村々から除かれた、とあるのを引用していました。
しかし、延宝6年(1674年)の本郷村と二子村の検地帳には、それぞれ4石1斗2升と2石6斗5升5合の塩浜高が記されています。また、享保10年(1725年)の印内村の検地帳にも、2反6畝26歩の塩浜が載せられています。
ですから、市西部の海沿いの村々は寛永年間に塩業をやめた訳ではなく、若干量ではあっても塩を作り続けたのだろうと想定されるのです。