それに対して、やや史料の多いのが俳諧です。言うまでもなく、俳諧は江戸時代を代表する文芸の一つですが、特に江戸後期には農村部にまで普及しました。
当時の船橋市域でも俳諧は盛んで、現在名の知られる俳人だけでも30人以上に上ります。その中では太乙庵素英、遠近庵三市、斎藤その女等が近隣にも知られた存在でした。素英は西船3丁目正延寺の前身延命院の32世住職だった人で、小林一茶と親交がありました。三市は上飯山満(現飯山満町3丁目)の人で、壮年に耳が不自由となりましたが、何人もの弟子に俳諧を教えました。斎藤その女は大穴の人で、女流俳人として特に有名です。娘時代から俳諧に親しみ、また江戸の高名な俳人に師事しました。晩年には俳諧集『憑蔭集』を刊行しましたが、この中には自身の句のほかに、故人を含んだ交友のあった俳人たちの句も多数収載されていて、実に興味深い本となっています。巻頭には、庵で雀を招き遊ぶその女の姿を描いた挿画があり、そこには「我庵や月も時雨も椎一木」というその女の句が添えられています。その女は慶応4年(1867年)に87歳の高齢で死去しましたが、その墓(大穴北5丁目西光院所在)は市の文化財に指定されています。
庵で雀と戯れる80歳のその女(『憑蔭集』の挿画、柴田是真画)。書名の「たのむかげ」は、その女の庵の傍に大きな椎の木があり、この庵か憑蔭舎と名づけられたことに由来しています