江戸時代は寺院が幕府の政策で保護され、かつ厳しく統制されていました。幕府は寛永年間(1630年代)と元禄年間(1690年代)に、新たな寺院の設立を禁止する法令を出しています。そして、寺院は本寺と末寺の上下関係で厳しく規律されるようになりました。
また、幕府はキリシタン禁制の徹底をはかるため、全国民をいずれかの寺に帰属させる寺請制度を実施し、寛文年間ごろ(1660年代)に全国に普及させました。これはキリシタン禁制の実効を上げるのもさることながら、宗門人別帳(戸籍帳)を作成させて、寺院に人民統制の一端を担わせようとするものでした。そのかわりに、住民の葬儀はすべて寺院がとりしきるようになり、また住民は自家がキリシタンでないことを寺院から証明してもらわなければならなくなり、寺に対して全く弱い立場に置かれました。
「印内村宗門改帳」の一部
一方、神社も別当寺の管下に置かれ、寺院に従属するような形となりました。
そのように寺院が神社・住民に対して優位に振るまったことは、やがて明治維新後に排仏運動が起こる一因となっています。