そうした人々の教育レベルの向上は、寺子屋・私塾の普及に負うところが大でした。市域の教育施設は、古いところでは宮本の了源寺に元禄年間に置かれたのが始まりといわれます。江戸後期になると市内各所に寺子屋・私塾が開かれ、子供たちに読み書き、そろばんを教えました。中には中級の漢学や算法を教える塾もありました。
そのうち、史料類が最もよく残されているのは藤原の安川塾(安川舎)です。安川塾は文化8年(1811年)に開かれ、父子4代にわたって村内と近隣の子弟の教育に尽くしました。子どもたちは3~4年間学んで初歩の読み書き、そろばんを身につけましたが、一部にはひき続いて中級の勉学を受けた者もいました。就学率は史料の残る隣村柏井(市川市)の場合、男子で約3割強でした。また、通学圈は約2・5キロメートルとあります。
この寺子屋・私塾の普及ぶりは古文書類がなくとも、筆子塚や頌徳碑等でも知ることができます。筆子塚というのは、弟子(筆子)が亡き師匠に感謝して建てた墓碑のことです。市内では江戸~明治前期の筆子塚・頌徳碑が26基も確認されています。行々林(鈴身)には湯浅せつという女性の師匠もいました。
本町3丁目浄勝寺の筆子塚