松平定信の『狗日記』

 松平定信といえば、寛政の改革を推進した老中として知られますが、その定信は老中退任後の白河藩主時代に船橋に宿泊し、付近のことを文章にしています。
 定信がなぜ船橋に泊まったのかというと、当時白河藩が異国船渡来に備えて内房沿岸の警固を命ぜられていたので、その巡視に行く途次だったのです。定信は文化7年(1810年)10月29日に江戸を出立し、その夜船橋に泊まり、11月3日館山に至り、10日に藩邸に帰っています。その時を回想した文学的日記が『狗日記』で、中には次のように記されています。
  船橋のあたり行く。梨の木を、多く植ゑて、枝を繁く打曲て作りなせるなり。「かく苦しくなしては花も咲かじ」と思ふが、枝のびやかなれば、花も実も少しとぞ。
 これでわかるように、市川から船橋にかけては、江戸時代後期にすでに、梨の名産地となっていました。
 

江戸時代の梨園