戦闘までの経緯

 慶応4年(1868年)は9月に明治に改元されますが、改元前の閏4月3日((注)参照)に、船橋地方は未曾有の大事件に巻き込まれました。戊辰戦争の局地戦が船橋周辺で起こり、中心街の大半が兵火で焼失させられてしまったのです。
 この戦闘は市川・船橋戦争と称され、4月11日の江戸城明け渡しと、5月11日の彰義隊の上野戦争との中間の時点で起こりました。
 4月11日に江戸城が明け渡しと決まると、それを不服とする旧幕府軍の一部は江戸を脱出しました(彼等は脱走方と呼ばれました)。その中には、市川・船橋戦争の主役となった旧撤兵頭福田道直に率いられた撒兵5大隊もありました。福田らはまもなく真里谷(君津市)に本拠を置いて、義軍府と袮しました。撒兵は軽歩兵で、フランスのミニエー銃を主な武器とし、1大隊は300~400人ほどでした。
 4月下旬になると、その第1~第3大隊が北上を開始しました。北関東方面への援軍のためとも、江戸入りを狙ったためともいいます。
 4月23日ごろには、江原鋳三郎率いる第1大隊が船橋に入り、28日ごろに中山法華経寺に転進、船橋へは第2大隊が布陣しました。
 一方、それを阻正しようとする官軍方は岡山藩、福岡藩、津藩、佐土原藩(宮崎県)の兵の一部でしたが、各地への応援のため、義軍府に対する兵力は不十分でした。
 25日ごろから官軍方は脱走方に再三武器の引き渡しを要求しましたが、脱走方が応じないため、閏4月3日を期して武力行使と決しました。
 ところが、それを察知した脱走方は先手攻撃を計画し、形勢は刻一刻戦闘に傾いていきました。
(注)陰暦では1か月の平均日数が29・5日なので、19年に7回閏月を入れて(その年は13か月)季節と合うようにしていました。
 

戊辰戦争のかわら版。左端に「舟バシ」とあります