そのような状況を見て、開墾事業に収益の見込みのないことを知った会社は、明治4年に入ると解散を見越して政府に資金の貸与を再三願い出ましたが認められませんでした。その裏には、間もなく地租改正が行われ、完全な土地私有制度に移行すると察知した会社幹部の、解散して土地を取得する方が有利とみる思惑があったといわれます。
その後、政府、会社、東京府、印旛県、移住者で協議、かけひき、抗議と目まぐるしい展開があったものの、結局は移住者に5反5畝の土地を割り渡して独立させるという名目で、5年5月に開墾会社は解散してしまいました。