その後の二和・三咲

 会社解散後に二和・三咲からの退転者は一層増加しました。独立を認められても5反歩余りの農地では生活が困難なためです。
 一方、会社の幹部であった西村・星野の両者はそれぞれ予定地の過半の百数十町歩を取得しました。その土地の多くは小作地として貸し出され、近隣農村の二・三男等が借り受けて農地を広げました。
 つまりは、二和・三咲とも、当初の入植者のうちでわずかに残った人々と、後で周辺農村から移住した人々が、今日に続く畑作地帯を築き上げたのです。
 

星影神社(二和西3丁目)にある「二和開墾百年記念碑」