牧場から演習場へ

 明治政府は成立の当初から、富国強兵を目標にした国づくりを進めました。そのための一方策として、軍隊の演習場を東京近郊でも確保したい意向を持っていました。
 明治4年には兵部省から政府当局に対して、軍隊の操練に広い原が必要なので総州小金原を割り渡してほしいと願書が出されています。これに対して民部省は、小金原では既に開墾が始まり、入植者が移住しているので無理であるが、近隣村々の請地のうちの原野をあてたらどうかと返答しています。
 村々の請地というのは、江戸時代中期以後に牧場内で、肥料用の草を刈ったり、あるいはたき木の木を切る代わりに少額の金銭を幕府に納めた土地で、多くは村の入会地(共有地)として扱われた場所のことです。
 結局、右の民部省路線が採用されたらしく、後に演習場とするのを前提に、6年になって近衛兵の演習が行われたのです。