習志野原演習場の変遷

 明治7年9月には、民有地270町歩の買い上げが決定し、早急に実行されました。そして直ちに兵舎の建設も進められたようで、8年の地図には第一営~第七営までの多くの建物が載せられています。
 演習の兵士ではなく、常駐の部隊が置かれるようになるのは明治31年からで、習志野騎兵連隊が、一個中隊の規模で習志野第一番衙(現自衛隊駐屯地)に誕生しました。34年には大久保(習志野市)に新兵舎が完成して移転し、同年末に二旅団(四連隊)の編成が整いました。
 40年には鉄道連隊が津田沼に移転し、現在の新京成線の前身にあたる路線は昭和初年に敷設されています。狭軌の汽車路線でした。
 大正5年(1916年)には、騎兵学校が東京目黒駒場から薬園台の東方に移転されました。当時の陸軍では騎兵が中核でしたから、習志野に移った騎兵学校は拡大充実の方向をたどりました。ロサンゼルスオリンピックの大障害飛越で優勝した西竹一中尉(当時)は、騎兵学校出身で教官も務めました。
 

大正4年の演習の光景

 
 習志野原演習塲は、全国に知られた演習場で、ここで述べた以外の施設もいくつかありました。
 第二次大戦後には開拓されることになりましたが、一部連合軍に接収された所が自衛隊に引き継がれています。
 しかし、一望千里といわれた平原のうちで、面積の広かった成田街道北側の地域はほとんど住宅地に変わり、演習場時代の面影はしのぶよすがもありません。
 

「一望千里習志野平原」とある絵ハガキ。昭和初期か(山川正作氏提供)