明治政府は、強力な中央集権的近代国家の建設を目指して出発しましたが、成立当初の財政基盤は貧弱なものでした。その財政基盤の強化のために進められたのが地租改正です。
当時、旧来の租税制度の問題点は次のように認識されていました。
①旧来の年貢賦課方法は幕府、藩、旗本によってまちまちで統一されていない。
②米等の現物年貢で国家財政が賄われることは、相場の変動で正確な予算編成が困難な上に輸送、保管、販売に膨大な費用がかかる。
③旧幕時代の年貢は、士農工商のうちの農民に負担が片寄りすぎて、四民平等の理念に反している。
地租改正は右の問題を克服して、全国画一の租税制度を確立しようとするものですが、その前段として次のような改革がなされました。
まず明治4年9月に米麦輸出の禁止が解除され、10月には田畑勝手作、すなわち田畑に作る作物の自由が認められました。5年2月になると、田畑永代売買禁止令を解除し、ひき続いて「地所売買譲渡ニ付地券渡方規則」を制定しました。さらに7月には売買譲渡に関係なく、全国一般の所有地にも地券を発行することを規定しました。この地券は明治5年の干支に因んで壬申地券と呼ばれています。