船橋小学校等の開校

 学制発布後、印旛県では直ちに凖備に取りかかり、5年9月には寺子屋・私塾の廃止を布達し、10月には各小学区ごとに教員適任者を選ばせ、小学科目とその教授法を学ばせる旨触れています。
 そのような状況の中で、船橋でも学校設置の機運が高まり、船橋宿では寄付金を募って本庁から教師を派遣してもらう手当とし、11月18日に日蓮宗寺院の行法寺(本町3丁目)を仮学校として開校しました(現在の船橋小学校)。これは流山校に次いで、県下2番目の小学校という栄誉ある開校でした。
 6年以後になると、市域では次々と学校が開かれるようになります。6年に真名校(宮本)・納谷校(本町)・海神校・夏見校・柏井校(法典)・金堀校・前原校・飯山満校、7年に米ヶ畸校・金杉校・西海神校・印内校・二子校が開校したのです。もっとも、これらの学校の校舎は、ほとんどが寺院を借用したものでした。
 明治8年の各校の状況をみると前ページの表のようになります。この数字からは就学率はうかがえませんが、当時の千葉県の数字は男子58・6パーセント、女子13・2パーセント、平均35・7パーセントで、女子の就学率はきわめて低率でした。
 

明治8年の学校と生徒・教員

(『船橋市史現代篇上』から一部訂正)