学制による学校教育の推進は、当局の懸命の努力にもかかわらず、思うような成果が上がりませんでした。その原因としては、①過重な学校費の負担に堪えられない家がかなりあること、②生徒の多級化に追いつかない教員不足、③欧米風の教科内容に対する親の不満等が挙げられます。
特に学校費のことでは、折からの地租改正事業による出費等と重なり、一部地区では学資金反対のため、子どもを登校させない運動まで起こりました。
当時、世情も西南戦争後の動揺期であり、政府部内でも学制を改正して民衆の不満を抑えるべきとする意見が強まりました。そして12年9月に、住民の負担を減らし、一方では教育に対して住民の自発性と責任を期待した「教育令」が公布されました。その内容は、①就学は4か年以上とするが、年4か月以上就学すれば可、②資力の乏しい地方は教員の巡回教授でも可、③私立小学校があれば公立小学校は設置しなくても可、などでした。
しかし、その結果は現実には就学率の低下を招いて公立学校は停滞し、中には廃校に至るものさえありました。そのため、政府はわずか1年で教育令を改めることとし、13年12月に「改正教育令」を出しました。これは国・県の町村への統制を強めたもので、町村は独立町村あるいは連合町村で、1校もしくは数校を設置するよう厳格に規定しています。また就学期間は最低3か年に短縮されましたが、授業はほぼ年間常時行うともしています。さらに学科の冒頭には修身が置かれています。