計画ルートは、利根川水運との競合を避け、本所~八街として申請しました。このルートには国府台、津田沼、佐倉等の陸軍軍営所在地があり、陸軍の支持も得られるものでした。
そのせいか、4月には政府から仮免状が下付され、いよいよ本格的に始動する運びとなりました。ところが、間もなく日本が経済不況に見舞われてしまい、株式の売り上げが思うようにいかなくなり、事業は休止状態になってしまいました。
その間、発起人の一部は私財を投げうって会社を維持し、経済の立ち直りとともに、26年8月にようやく着工にこぎつけました。
工事はほぼ順調に進み、27年7月に、まず市川・佐倉間が開通しました。当初の駅は市川、船橋、千葉、佐倉であり、運転本数は1日上下各5本でした。また、同年12月には本所・市川間が開通しました。当時の運賃は本所~船橋が下等で14銭(中等はその5割増、上等はさらに5割増)でした。そしてこの値段は下等の場合は、馬車や人力車よりだいぶ低額でした。
翌28年には中山駅と津田沼駅が開業しました。
30年になると、銚子までの全線が開通し、さらに佐倉で成田鉄道との連絡が実現しました。
鉄道開通直後の通りと駅を描いた銅版画
総武鉄道時代の汽車(『千葉鉄道管理局史』より)