鉄道開通の影響

 鉄道の開通については、各地に「鉄道が病気を運ぶ」「煤煙で作物がとれなくなる」「家畜がおびえる」等と反対したという話が残されていますが、船橋でも旅館業者を中心に反対者が多かったと伝えられます。
 確かに、鉄道開通によって船橋のまちの様相はかなり変わりました。それまでの船橋は、成田街道最大の宿場として、人力車や馬車で成田に参詣する人が一番利用する所でした。ところが、前述のように汽車の方が速くて安いのですから、ほとんどの人は汽車を利用するようになってしまい、宿泊客が激減したのです。ですから鉄道開通によって、船橋は一時かなりさびれてしまったといいます。
 しかし、船橋は間もなく、それまでも有していた地方商業都市としての機能を充実させる方向で苦境を乗りきりました。やがて、地元の人々にも商業都市として発展するには、鉄道の存在が必要不可欠のものとして認識されるようになっていきます。
 一方、旅館業の方も割烹や遊興街としての色彩を強めて、繁栄していきました。これには、習志野原軍隊の拡充も寄与したようです。
 ただ、産物を輸送する海運業は鉄道の開通に加え、明治38年に道路の江戸川橋が架けられたことから、次第に活動の場を失っていきました。
 

江戸川鉄橋を渡る汽車(『千葉鉄道管理局史』より)