3年8月には、江戸川を渡って市川新田(市川真間)まで開通し、いよいよ第2期の目的地船橋までの延長工事にとりかかりました。
この市川・船橋間は、当初の計画では、国道を利用して線路を敷設するというものでした。しかし、この区間の道路は通行量が多い上、軍隊の演習行軍とも重なるため、大正3年1月に路線変更の出願をして、国道北方に敷設することになりました。
しかし、工事は予想外に手間どって4年11月に中山まで延長となり、船橋までの開通は5年12月にようやく実現しました。押上・船橋間の運賃は25銭でした。
この路線敷の工事では海神山から土砂を運び出した際、古墳を削ったものらしく、埴輪が多数出土したと報告されています。
船橋までの開通によって、京成線の利用客は飛躍的に増加しました。それは、本数が多く、運賃も国鉄より安価なことによります。そのため、船橋・千葉間の住民からも延長の要請が多く、会社では当初の成田線着工計画を後回しにして、千葉線優先で建設が行われました。そして大正10年7月に、船橋・千葉間も開通の運びとなりました。成田線の建設は14年10月に着工し、15年12月に成田花咲町までが開通しました。
余談になりますが、京成線が船橋付近でカーブが多いのは、元々の計画では成田線と千葉線の分岐点は船橋の予定で、船橋~国鉄津田沼付近~大久保が計画路線だったのを、前述のような訳で千葉線優先に開通させたのが原因の一つになっています。
京成電気軌道は、その後国鉄総武線が御茶ノ水・千葉間を電化させる昭和10年代まで、競合区間では常に優位に立っていました。なお、社名は昭和20年に京成電鉄と改められました。
昭和初期ごろの京成船橋駅