船橋無線電信所

 日露戦争(明治37年・1904年)後、海軍の行動範囲が拡大したのに伴い、通信力増強の要望が強まると、東京近郊に大規模無線電信所を設置することが決定されました。候補地として千葉県稲毛付近・船橋付近・神奈川県武山付近が挙げられ、調査・検討の結果、大正2年(1913年)、船橋郊外の塚田村行田に決定しました。土地買収費・建築費・設備機器費等総予算は115万円余り(当時の船橋町年間歳入予算は2万6000円余り)でした。
 装備は高い技術を誇るドイツ・テレフンケン社の送信機が採用と決まり、2年10月起工式が行われました。ところが、3年6月に第一次世界大戦が勃発して8月に対独宣戦布告となるや、ドイツ人技術者が図面を処分して帰国してしまいました。そのため、日本の技術陣は非常な苦心を強いられ、4年4月にようやく完成しました。
 

大正4年に完成した無線塔の主塔

 
 当初の施設は、中央に上下平行で高さ約200メートルの主塔、周囲に高さ60メートルの副塔18本で、主塔から副塔方向に鋼鉄の空中線が傘の骨のように張りめぐらされていました。主塔が半自立塔であったためです。
 この無線電信所施設の性能は東洋一、世界でもトップクラスで、まだ市になる前の船橋が「日本の口」として、世界地図に載るというエピソードを残しています。
 また、5年には逓信省に一部使用を認め、国際無線通信の業務も取り扱うことになり、11月に大正天皇とアメリカ・ウィルソン大統領間で祝電の交換が行われました。
 この無線塔は後に大改造され、「ニイタカヤマノボレ」を発信する等の話題を残しますが、それらは後の項で紹介します。
 

無線塔のあった場所は、現在は行田公園となっています