その後戦時色が強まると、主に東京から軍需機器関連の工場が海神郊外等に疎開して来ました。鴨川ニッケル・日本建鉄・三菱化工機等でした。
鴨川ニッケルは14年から操業し、房州鴨川奥の山中から産する原石から特殊金属といわれたニッヶルの精練をしていました。日本建鉄は16年に操業を始め、海軍の航空機関連の部品を製造していました。ここでは迎撃戦闘機「雷電」の大半の部分を取り付け、75機製作したこともあります。同工場の最盛期には、徴用工を入れると2万人もの人が働いていました。
昭和15年前後の中山十字路
船橋の軍需工場