19年7月サイパン島が玉砕すると、アメリカ軍はマリアナ空港を造成し、秋にはそこからB29による日本本土への空襲が始まりました。
東京周辺の空襲は11月に始まり、船橋でも12月には日本建鉄周辺が爆撃され、住宅が2戸全焼・2戸半壊の被害を受けました。
20年になると空襲はますます激しくなり、主要都市の多くが爆撃の被害にさらされました。
市域で最も被害が出たのは、3月10日未明の二宮町役場一帯の空襲でした。この空襲は東京大空襲の帰りの飛行機から焼夷弾を落とされたものといわれ、役場庁舎をはじめ付近の住宅等10数棟が焼失しました。
しかし、市域の空襲の被害は千葉市や銚子市と比べるとはるかに軽微で、当時の中心街はほとんど被害を受けませんでした。