解題・説明
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日露戦争(明治37~38年、1904~05)の後、日本海軍艦船の行動範囲の拡大によって大規模な無線電信施設が必要とされた。東京近郊への設置が決まり、いくつかの候補地から東葛飾郡船橋町付近の塚田村行田が選ばれた。無線関係の機器一式はドイツのテレフンケン社製が採用され、同国のジーメンス社に発注された。大正2年(1913)に着工したが、翌年第一次世界大戦が起こり、日本がドイツに宣戦布告したことから、ジーメンス社の技術者が図面を焼却し、帰国してしまい、工事は困難を極めたという。大正4年(1915)に海軍無線電信所が完成し、通信が開始された。大正5年(1916)には逓信省(後の郵政省・電信電話公社)の通信所が併設され、ハワイの無線局と日米間通信が始まった(大正13年まで)。大正12年(1923)、霞ヶ関の海軍省内に受信所が置かれたため、海軍無線電信所船橋送信所と改められた。名称はこの後何回か変わった。東京タワーのような形の無線塔は昭和10年代に建て替えられた。太平洋戦争後、アメリカ軍に接収され、昭和41年に返還された。昭和46年~47年に解体・撤去され、跡地は行田団地や県立公園などになった。現在の船橋市行田2丁目・3丁目。絵はがき013~016は大正4年(1915)以降、昭和10年代に建て替えられるまでの半自立型の塔である。「船橋送信所」となっているため、大正12年(1923)以降の様子である。主塔660尺(約200m)1基、副塔200尺(約60m) 18基、用地15万坪(約5Oha)、周囲27町(約2,950m)。
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