解題・説明
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畑佐銅山は文禄年間(1592~96)に発見された。江戸時代に郡上藩直轄になったが、長尾(なご)鉱山(銀山、明宝村奥住)の原庄兵衛が藩主遠藤常友(つねとも)に願い出て採掘権を取得した。庄兵衛の子孫は代々畑佐鉱山を経営し、元禄の頃(1688~1704)年々御用銅として1000斤(約600キロ)ずつ納められたという。その後も藩の御用金を用立てるなど藩の財政を支えた。青山氏の代では藩直轄となったが、廃藩後は再び個人経営となった。明治時代後半に奥美濃鉱業株式会社の経営となり、大正二年に廃業となった。(参考 石田正之輔、高橋教雄、寺田敬蔵『復刻 郡上郷土史料・解説』郷土出版社 1992年)
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