ペリー艦隊が退去するや、幕府は翌年春のペリーの再来までに具体的な対応策を練る必要に迫られた。そのため、時の老中阿部正弘は、一方で前水戸藩主徳川斉昭に意見を求めつつ、他方で6月26日には評定所一座(寺社奉行・勘定奉行・町奉行の3奉行他)及び3番頭(大番頭・書院番頭・小姓組番頭)に、同27日には溜間詰諸大名(老中経験者などの上級譜代大名)に、7月1日にはそれ以外の諸大名に、同3日には高家以下布衣以上の諸有司に、それぞれペリーが提出したアメリカ大統領親書の訳文を示し、「仮令忌諱ニ触候而も不レ苦候間、聊心底を不レ残十分ニ可レ被二申聞一候」と、各自の忌憚のない意見を求めた(『維新史料網要』巻1、『幕外』1-247・248・261)。老中が対外政策を決定するにあたって、広く諸大名の意見を求めたのは、幕藩制社会成立以来これが最初であり、それだけにこのことは、ペリーの来航が幕府に与えたショックがいかに大きいものであったかを示すと同時に、公儀としての幕府の権威の失墜を示すものでもあった。
幕府諸有司・諸大名・幕臣等は、右の阿部の求めに応じて相次いでその意見を上申したが(『幕外』1~3)、これらの意見を大別すると、(1)祖法を守り、必戦の決意でアメリカの要求を拒否し、海防の強化に力を注ぐべしという保守的強硬論、(2)彼の要求はうけいれられないが、当面の対策としては、つとめて穏便な処置をとることを原則としつつ、もし彼の主張が強硬ならばその一部を呑むこともやむなし、という避戦論を軸とした一部容認論、(3)通商を免許し、国益を増し、あるいは交品の利益で武備を強化すべしという積極的開国論の3つに分けることができ、なかでも多かったのが(2)の避戦論・穏便処置論であった(石井孝『日本開国史』)。こうした意見を参考にしつつ、幕閣は対応策を検討したが、具体策となると幕閣内でも意見の一致をみることはなかなか難しかった。かといって広く幕吏・諸大名に意見を求めた以上、幕府の公式な見解をできるだけ早期に諸大名・旗本に示す必要があった。こうした状況の中で、幕府は苦慮に苦慮を重ねたすえ、11月1日、諸大名・旗本に対し、諸大名・旗本の意見を集約すると、究極のところ「和戦之二字」に帰着するが、防備体制が不備な現在、アメリカ(ペリー)の要求に対しては許否のいずれをも明言せず、できるだけ「平穏」に対処することを旨とし、防備を固めつつ、万一相手が攻撃を加えてきた場合には、「国体」を汚すことのないよう上下一致団結して忠勤を励め、というのが「上意」である旨達した(『幕外』3-55)。ここには新たな国際情勢をふまえた具体的な対外政策は何一つ示されていない。こんな曖味な方針でペリーの再渡に対応しきれないことはいうまでもないが、こうした対外政策での無策こそこの期の幕府の偽らざる姿であった。こうして幕府は、新たな国際情勢に対応しきれる具体的対外政策を何一つ持ち得ないまま、翌年1月ペリー艦隊の再渡を迎えることとなったのである。