その後この函衛隊がどのような動きをしたのかは確認できなかったが、先の東久世長官の記録の明治3年7月10日の項に「函衛隊暴動一件落着」とある。その内容は不明であるが、隊内部でもめ事があり長官の耳にまで達していたわけである。このことが契機となったか否かは不明であるが、同年閏10月14日に函衛隊の組織や訓練方法がフランス式に改められ、1中隊編成とすることになり(『布類』、東久世長官「日録」写)、翌11月には「函衛隊ノ義今度仏式御改正ニ相成即今修行中ニ候処、人数不足ニ付市在農商厄介至迄有志ノ輩ハ願出次第人選ノ上三ヶ月ノ間修行為致、技芸之沙汰ニヨリ兵士又ハ本隊役中ヘモ御抱入可有之間、有志ノモノハ早々可願出事」(田中家文書「諸用留」)という触書が出されて隊員募集(15~25歳)も行われた。翌月に出された注文書には兵士用のフランスシャッポ(帽子)の数が142個(隊長1、小隊長2、半隊長2、嚮導役9、兵士128)で、帯締は150個とあるので、ほぼ150人ほどの編成を予定していたようである。この頃はまだ兵部省もフランス式を採用しており、フランス式の影が薄くなりドイツ的な陸軍に変貌していくのは明治8年以降のことである。
またこの時函衛隊御用掛宛に「兵隊ノ義往々至当ノ地ヲ選ミ、屯田土着法ニ可相成御目途ニ候事」(『布類』)との達も出されているので、この頃は函衛隊を屯田兵的な位置付けで捉えていたようである。
その後、体制整備のため兵部省から指導教官を招くこととなり、明治4年4月17日、兵部省第2連隊第1大隊の小隊司令芦沢龍之助(のち信義)と田淵秀一、同教授方手伝鬼越益蔵(のち信宜)の3人が到着、22日に芦沢龍之助と田淵秀一が護兵小隊長、鬼越益蔵が半隊長に任命され、函衛隊は以後護兵隊と呼ばれることとなった。任務はやはり市中巡邏と外国船入港時に祝砲を打つことであったが、8月に入って祝砲担当を砲兵(砲車司令官3人、兵士12人)として組み立て制服も整えたとあるので(「開公」5487)、以後市中巡邏担当は″護兵″、外国船入港時の祝砲担当は″砲兵″と呼ばれたようである。
次いで同年9月、「暮六ツ時ヨリ払暁迄下等士官共六名ヅヽ巡邏ノ事」「市中巡邏先外国人ニ対シ不都合無之様可致、仮令彼ヨリ争端相開候共一ト先隊長ヘ相届可受其指揮、決テ一己ノ取計致間敷、又外国人構ノ内ニ混乱ノ事等有之候共猥ニ立入間敷候事」「巡邏中決テ粗暴ノ所為有之間敷候事」など7か条の「巡邏兵隊心得」(『布類』)が達せられ、市中見回りの基本姿勢が明示された。この心得で第1番に挙げられているのは外国人問題で、開港場函館の姿が浮彫りにされており、当時の日本の立場が如実に示されている。
ところがこの年10月、東京、横浜に邏卒が設置されて市中の治安を担当するようになると、函館でも護兵隊を解隊して邏卒を設置しようとする動きが出、護兵隊は解隊されることになった。