司法省直轄の函館裁判所の設置によって、それまで函館支庁の民事課、刑法課、外事課が錯綜する形で進められていた事務が整理されたわけである。刑法課は聴訟断獄検事事務を函館裁判所へ引継ぎ廃止され、外事課は最も頭を痛めていた「中外関渉の訴訟」から開放され、民事課は刑法課から引継いだ囚獄および懲役係と従来からの邏卒係を所管した。ただ、引継ぎを想定した関係職員名簿に刑法課民事課分掌とあって、捕亡係及び捕亡手先を合わせて27人(函館15人、福山6人、江差6人)もいた捕亡係が、その後何処の所属となったかは確認できなかった。
捕亡係は、犯罪捜査という司法警察業務を担当する係で、明治4年の県治条例では府県の聴訟課の職務とされたもので、函館支庁では刑法課民事課分掌とされ、函館に邏卒が設置された後も廃止されてはいなかった。函館裁判所で警察事務を統括することとなった少検事伊庭貞剛が、「行政警察司法警察の事務は東京警視庁の職制に準じ取計い、捕亡方は廃止して要所に邏卒を置きたいが」と問合わせたのに対して、開拓使は「都て警視庁の職制に従う見込である。函館には邏卒課も設けてあるので問題ないが、福山江差は邏卒未設置なので市中の警保は捕亡方と右手先に担当させたい。東京のように繁華の往来もないので従来通りでよいのでは。しかし人民の警保が行届き兼ねる状況になれば、追々協議の上更正したい」と答えているのである(「開公」5793)。また、福山江差に邏卒を設置する際(8年8月)も捕亡係については全く触れられていないのである。もっとも、8年3月の「行政警察規則」制定の際に捕亡等の名称は総て邏卒に改称されてはいたが。
少検事伊庭貞剛の問合わせ中、警察事務が行政警察と司法警察とに分けて表現されているのは、犯罪捜査担当の司法警察とは別に、人民警保担当の行政警察を所管するために内務省が設置(6年11月10日設置)され、その直轄下に首都警保のための東京警視庁が、7年1月15日に設置されたことを受けたものである。司法省は、5年8月27日に警保寮を設置(東京邏卒を所管)、人民警保を任務とする行政警察事務を担当することとし、警保助兼大警視川路利良を警察制度視察のためヨーロッパに派遣した。彼は約1年間の視察後、行政警察と司法警察の分離を骨子とした建議書を提出、この建議が容れられて内務省が誕生、7年1月9日に警保寮が内務省に移管され、司法警察は司法省が所管(検事が司法警察官を総摂)、行政警察は内務省が所管する体制となっていたのである。東京警視庁職制章程並諸規則(7年2月制定)では、行政警察は「警保ノ趣意タル、人民ノ凶害ヲ予防シ世ノ安寧ヲ保全スルニアリ、之ヲ行政警察ノ官トナス」(第2章第1条)とあり、と司法警察は「行政警察予防ノ力及ハスシテ法律ニ背ク者アルトキ、其犯人ヲ探索逮捕スルヲ司法警察ノ職務トス、之ヲ行政警察ノ官ニ於テ行フトキハ検事章程並司法警察規則ヲ照ラスヘシ」(第2章第4条)と明確に区別されている(『内務省史』)。
この警視庁規則を下敷きに8年3月7日に「行政警察規則」(太政官達第29号)が制定され、4月1日、府県において施行された。開拓使はこの「行政警察規則」を受け、同年12月28日「開拓使行政警察規則」を布達したのである。
一方、司法警察については、検事事務も函館裁判所へ引継ぐことが達せられたが、函館裁判所設置前の打合せでも、賊徒探索逮捕等は、すべて地方庁(函館支庁)の受持ちであること、裁判所は犯罪が露見した者を地方庁(函館支庁)より受取り処刑申渡す迄を担当することが確認されており、犯人の探索逮捕を監督指令し司法警察官を総摂する検事職を函館裁判所に置くことが意識されていない。このため函館裁判所が開庁した明治7年5月24日に函館支庁が杉浦中判官名で「此度函館裁判所被設候ニ付、司法警察ニ係ル事務ハ検事職制章程警察規則ノ通リ取扱可申」と布達し、当初函館裁判所赴任予定名簿にあり、警察事務を統括する予定であった少検事伊庭貞剛は函館に赴任しなかったと思われる。その後、7年10月3日には当分司法警察事務を使府県に委任することとなり、検事は函館裁判所に未設置のまま推移したが、13年12月2日の司法省の職制章程の改正で、検事を裁判所へ派出することに改められ、函館地方裁判所にも検事局が設置され(14年1月29日設置、3月14日開局)、高山一祥検事正が初代検事として派出されている。