郵便事務所管庁の動き

300 / 1505ページ
 明治新政府が政務の担当の分課を表明したとき(明治元年1月17日)、郵便事務は内国事務掛が「諸国水陸運輸駅路」という形で担当することとなったが、同年閏4月21日の「政体書」体制では、内国事務掛が解体されたため、太政官7官中の会計官(大蔵省の前身といえる官庁)に駅逓司(長官は奏任5等官の知司事)が置かれ、運輸駅逓事務を担当することとなった。物資輸送の人馬賃銭等に関することが、駅逓事務では重要なことであったことを反映した結果のようである。しかしその後やはり国内事務を統括する省が必要ということで、明治2年4月8日民部省が設置され、府県事務の監督や戸籍事務と共に、駅逓事務も民部省に移り駅逓司(長官は駅逓正(かみ))として「人馬制度諸賃銭増減助郷ノ諸務ヲ専管」することとなったが、大蔵省との確執(2年8月12日両省合併、3年7月10日両省分離)の中で民部省は4年7月27日廃止され、事務は大蔵省に併わされている。その後駅逓司は、4年8月10日の官制改定で3等寮(長官は駅逓頭(かみ)…初代駅逓頭前島密)となっている。
 その後、6年11月10日に内務省が設置されて駅逓寮は内務省に移り2等寮となり、8年11月25日の改定で1等寮、13年12月2日の改定で寮司がすべて局と改められ、駅逓寮も駅逓局(初代局長前島密)となる。14年4月7日に農商務省が設置され、逓信局は農商務省所管に移される。18年12月22日に「駅逓電信灯台管船ノ事務ヲ管理」する逓信省が設置されると、駅逓事務は逓信省に移った。