一方、払下げ反対運動の高まりの中で政府内部にも払下げ許可見直しの動きが出て、新聞にも「一昨日(八月二十八日)頃とか供奉(天皇の東北北海道巡幸の随行員)の某公より東京の某公の御手許へ向け御詮議の次第ありて開拓使官有物払下は暫く中止との旨を電信にて内報せられしとか申せども、此節柄の事ゆえ浮とは信じ難し」(14年8月30日「東京日日新聞」)と報道される状況に至っていた。
また政府内部は、国会開設問題で漸進主義を主張する岩倉具視、伊藤博文らと、16年国会開設、議員内閣制などを主張する急進的な大隈重信が対立して不安定な政治情勢となっていた。さらに大隈が交詢社と緊密な関係にあったことから、交詢社主導の政府攻撃演説会は背後で大隈が操っているとの大隈陰謀説が流れ、政府内部の反大隈派による大隈排撃の動きも活発になっていた。
そこで伊藤らは天皇巡幸に大隈が随行して留守の間に、漸進主義で政府内部を統一し、国会開設の確約と開拓使官有物払下げの取り消しで世論の政府攻撃のたかまりの鎮静をはかろうと画策した。天皇が東北北海道の巡幸から帰京した10月11日、御前会議を開催、欽定憲法を制定し10年後に国会を開設するという方針と、開拓使の物件払下げ取り消しを決定した。翌日、開拓使へ「先般其使所属官有物払下聞届ノ儀及指令置候処、詮議ノ次第有之取消候条此旨相達候事」(14年10月12日「函新」)と通達、同時に明治23年に国会を開設する旨の詔勅を発し、大隈参議らを罷免した。世にいう明治14年の政変である。
払下げ取り消しの達が函館で報道されたのは10月20日で、函館新聞は「三条太政大臣より開拓使へ左の通りお達しに成りました。」とのコメントのみでこの通達を掲載、9月10日の演説会の様子を伝えた頃の論調は、まったく影をひそめていた。
「朝野新聞」はこの年の末、「明治十四年ヲ忘ル可カラズ」と題して「不正ナル開拓処分ヲ止メタルハ輿論ノ功ナリ、至難ナル立憲政体ノ予約モ輿論ノ功ナリ、本年ハ則チ輿論ヲ以テ社会ヲ改良セシ新紀元ナリト云フベシ」(12月24日「朝野新聞」)との論説を載せ、この年を締めくくっている。