自治区制導入の諸意見

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 明治21年、府県では市町村制が施行され、わが国の地方自治制の基礎が置かれた。しかし、この法律は北海道と沖縄には施行されなかった。明治32年に施行された北海道区制は、明治20年代の函館を有力な拠点とする北海道議会開設運動等、道内の自治制要求を基底におくと共に、政府の自治制整備、統治上の要請によるものであった。
 すでに明治19年1月の北海道庁の設置後、同年8月、道内巡視を行った井上馨、山県有朋は「北海道巡視意見書」を残し、そのなかで、「概シテ内地同様ニ一般法律ヲ施及スル事」を批判し、「夫レ北海道ノ如キ創開ノ地ハ成ル丈ケ一切ノ制度ヲ簡易ニスルコトヲ要シ」と述べ、開拓地の北海道に適合した簡便な制度の導入を示唆している。
 明治26年、第5議会に提出された北海道議会法案に対し、政府側(内務省参事官都築馨六)の答弁は、北海道の地方議会設置を時間尚早として反対し、その根拠として、地方議会設置の基礎となるべき道内の多くの町村の基盤が脆弱で、府県同様の町村組織設定の困難さをあげている。広大未開という地域性、財政負担力の不均衡、地域社会の流動性、地方行政荷担層の未成長(地租納入者、不動産所有者など有産者層の未定着)、漁業にみられる季節的繁忙と冬期間の行動の制約等がそれである。しかし、この答弁では函館、小樽の市街地形成の事実を認めている。
 上記の答弁と密接に関連するのが、都築馨六文書のうちの「北海道行政組織ニ関スル意見書」である。この意見書でも、北海道議会設置時期尚早論を展開し、設置の前提としての町村制度確立の困難さを指摘し、町村制適用除外の政府側の論拠を明らかにし、政府が期待する行財政制度と住民の生産活動との間に矛盾があることを論じている。行財政制度においては、「現今ノ北海道ノ行政組織中、本官ガ最モ不十分ナリト感ズルモノハ町村ノ組織ナリ」と北海道の現行行政制度の問題点をあげ、府県と比較して北海道の制度は、「実ニ一国ノ各部内ニ於テ権衡ヲ失フ」恐れを生ずるほか、「北海道ノ町村ヲシテ其義務ヲ感ゼザラシメ益々依頼心ヲ長ゼシメ、中央政府ノ補助ノミ仰グニ至ラシムルノ恐レアリ」と、政府の立場から、行政制度の法的統一と財政補てん回避の必要性を指摘し、「宜シク今日ノ制度ヲ改良シテ漸々自治ノ方ニ向ハシメザルベカラズ」と、北海道の実状に添った行政制度の施行を提言している。住民の生産活動については、「北海道ハ経済上ノ点ヨリ之ヲ見レバ函館及ヒ福山・江差近傍ヲ除クノ外未成ノ地ト云ハザルベカラズ、利害ヲ見ルニ敏ナルモノハ一攫ニシテ千金ヲ得、一歩ヲ誤マルモノハ忽チ産ヲ失フ、故ニ諸人皆ナ自己ノ理財上ノ事ノミ注意シ他ヲ顧ルニ暇アラザルナリ、特ニ漁業期節ノ如キハ全ク戦場ノ如ク、所謂強力者勝ツノ世ノ中ニシテ法律モ規約モ共ニ其効ナキ程ノ有様ニシテ」と述べ、既に市街地を形成していた函館、福山、江差と道内各地を区別し、道内住民の理財観念と公共心に懸念を表明し、特に漁業に影響される北海道民の生活条件をも指摘している。従って、地方議会を設立しても、漁業の豊凶と繁忙により、「北海道ノ議会ナルモノハ数年ヲ期シタル事ヲ議決スル能ハザルノミ」と、議会の議決の永続性と、議会出席の困難さから、一部の「名勢ヲ博ロムト欲スルノ無産家ノ若輩ニ非レバ資力家ニ左右セラルノ人数ヲ以テ之ヲ組織スルニ至ルベシ、此ノ如キ議会ハ無責任ノ論ヲ発スルニ非レバ撰挙場裏ノ黒幕ニ左右セラルヽノ議会トナルベシ」と議会運営についての危惧をいだいているのである。
 政府が期待しているのは、有産者個人の資産および社会的資本の安定した蓄積がなされ、それによって自己の事業のみならず公共事務の遂行にも参与し得る経済的・時間的余力が生じ、地域社会が確立して、地域内では無産者に自治機構が左右される事態をみずに、有産者によって町村統治機構が安定して機能することであり、相当の市街地を形成していた函館、福山、江差以外の道内各地は、この期待に添うものではないと認識されていた。この点でいえば、明治14年の区会設置以来、区会運営の経験を有し、道議会開設運動にみられるように有産者層が存在していた函館では、自治区制の実施は当然であり、有産者層の利益を反映しながら、地方自治制の発展が期待しうるものであった。
 明治27年の井上馨『北海道ニ関スル意見』に示されている政府側の構想も、以上、記述してきた考えと基本的に同様なものであり、次のような北海道地方制度の具体的構想を提示している。
 
一、函館ノ如キ稍ニ完全ノ市街ヲ成シ、其ノ負担ニ堪ヘ得ヘキノ地ニハ、之ニ適当スヘキ特種〈ママ〉組織ヲ設クル事
一、他ノ村落ニ関シテハ二種若クハ三種ノ組織ヲ設ケ其ノ人口疎密及資力厚薄ノ度ニ照ラシ之ヲ適当ニ応用シ並ニ道路修繕、学校、病院其ノ他国庫ノ補助ニ関シテハ資力ノ発達ニ随テ漸次逓減ノ法ニ拠ル事

 
 井上馨の構想は、財政負担能力に応じて、函館等の都市部には「特種」な制度を、郡部には、2、3種類の制度に区分して設定するというものである。この構想は、3年後の明治30年に、函館等の市街地には「区制」として、郡部には「一・二級町村制」として公布され、具体化した。この外、2級町村制未施行地には、従来通り戸長役場が存続させられた。
 以上述べてきたように、北海道の「区制」、「一・二級町村制」は井上馨構想に集約された政府の地方自治制度の法的整備、統治的要請により導入された側面が強く、また「区制」は明治29年に公布された「沖縄県区制」と数か条以外は条文が一致していることが指摘されている。