国家主導型の港湾建設

564 ~ 566 / 1505ページ
 日本では明治以来、富国強兵、殖産興業、輸出振興という経済政策の下に、一貫して国家主導型の港湾建設、管理運営が行われてきた。それが地方自治体による管理形態に変わるのは、昭和25(1950)年の港湾法制定以降である。戦後、外国貿易港を特別扱いとし、特に重視する形態を一貫してとって来たという港湾政策は戦前の政策の継承である。また管理方式もきびしく、はしけ1隻、人足1人の行動にも政府の眼が光り、厳重な許可認可制度がとられているのもそうである。その反面、国家自らの財布から直接金を出し、建設計画から建設工事、その後の運営に至るまで積極的に口を出して来た。これが戦前の日本港湾史を貫く第一の特色である。
 第二の特色は身分制度である。これは官尊民卑という形になってあらわれている。港湾労働者は人夫、人足と呼ばれ、一人前の市民に数えられていなかった。戦後の港湾経済学史で、長く港湾の前近代性、半封建制が問題にされた所似である。港湾を場とする資本(海運・倉庫・陸運)は、商業資本の中に包摂されており、明治中期に至り、始めて海運資本がその中から飛出し、産業資本として特化、独立した。日本資本主義経済史において、産業革命は明治20(1887)年代の終わり、日清戦争(明治27~8年)の頃に起ったというのが通説であろう。それは、海運が蒸汽船時代に入り、鉄道が本格的に建設された時期でもある。
 しかし産業資本が、日本社会の封建的身分制度、家父長制の下での婦人の家内奴隷制、きびしい警察国家制度の土壌の中で、むしろ、これらをエネルギー源として、きしみとゆがみを内包しつつ成立したことを忘れてはなるまい。
 港湾において、それは港湾運送業の海運資本、倉庫資本への下請化、即ち独立特化できぬという形態で表現される。港湾運送業は、資本として独立することなく、産業として特化しえなかったのである。せいぜい人夫請負業、労力請負業者として知られる業種になっていた。
 第三は海運、鉄道を中心として、産業資本が日本に根づいて始めて、港湾建設が本格的に始まった、ということである。それは殖産興業、輸出振興第1主義をとる政策の下に、横浜、神戸港のような貿易港から始まる。築港計画はイギリス、オランダなどの外国人技師の指導の下で、各地で立てられている。特に北海道ではイギリス人メーク(Meik,C.S.)の功績が顕著である。しかし「本格的な造成工事は、明治二十二(一八八九)年、横浜港から始められ、その後大阪港、神戸港、名古屋港などの主要港に及び、次いで函館、小樽、釧路、室蘭の北海道諸港、その他の港湾造成が行われた」(広岡治哉編『近代日本交通史』)のである。