旅行の自由、船舶の港湾入出港の自由、積載貨物の内国課税廃止の3か条が、封建的領主制よりの脱出、全国市場の成立、かくして資本主義的近代化への足かせを除く自由化への基本条件であったが、このうちの最期の足かせとなった出港税が、明治20(1887)年3月、勅令第6号により廃止となった。「是に由りて当業者は租税の負担を免れたるは勿論、船舶の出入貨物の積卸皆自由を得て取引敏活となり、商業上利便を得たること少なからざりき」(『函館区史』)。商業上利便を得たのは、函館港だけではない。小樽港を始め、日本の商港すべてがそうであり、これから、本格的な港湾間の自由競争が始まる。
まず、函館港の対抗馬として出現したのは、明治維新後、全額官費で造成された首都札幌の外港、小樽港である。小樽港の出現(函館よりあらゆる面で有利)は、函館経済界の焦慮を深め、港湾改修へ全力投球を余儀なくされる。明治20年代の国内商業、交通の自由化は、北海道の内陸部開発を基本政策とすることを反映、小樽港の建設、札幌中心の鉄道、道路網の建設の結果として、首都札幌の外港、小樽港および、小樽商人資本の急速な発展をもたらした。函館に次ぐ第2の北海道拓殖基地の出現である。小樽の発展に決定的影響を及ぼしたのは、後述する広井勇博士が、心魂を傾けて造成された小樽港そのものであろう。