ステベ人夫と暴力団

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 横浜、神戸港の如き日本を代表する貿易港には、日雇人夫が職を求めて集まり(相対的過剰人口)、その日雇の港湾労働の口入れ屋、労働宿がはびこり、暴力団の治外法権地帯、無法地帯を形成した。これが、戦前戦後を通じ、日本にみられた通例の現象であった。戦後、アメリカ占領軍が民主化政策の重要な一環として、人夫請負業-労働者供給業禁止をかかげ、職業安定法第44条及び労働基準法第5条(中間搾取の禁止)に具体化して今日に至っている。この半封建的組制度は、北海道では、特に内陸部の鉄道、道路建設工事と炭鉱の専属下請制度で顕著なものがあった。監獄部屋とよばれるこの組制度は、囚人労働と並んで、戦前のいわば「北海道開拓」の骨格を形成する。真に、いまわしく国辱的恥部であった。
 函館港のステベの場合、今のところ、暴力団に支配されたという話を聞かないのは幸いであった。木下宏平によれば暴力団のいなかった函館港こそ函館港湾史の誇りであると、胸を張って断言される。
 でも、壮年客気の人夫が何百何千人と集まるところで、喧嘩、出入りの1つくらいはなければおかしい。例をあげると、明治20年2月16日付の「函館新聞」に「恵比寿町の大喧嘩」として報道されている事件がある。原因は、恵比寿町の出火の折に、寄席竹内亭が火の粉の内に包まれ、平生出入していた滝野善三郎の人夫数名と蔵前辺の山田市五郎等が手伝いにきて、市五郎と滝野の人夫の口論が、果てはたたき合となったことにある。竹内亭の主人が仲裁して一旦落着したがその後、竹槍鳶口棒等を携えた者総勢500名も徘徊し、今にも一大修羅場となりそうな有様だった。そこで顔役どもが説諭を加え仲裁を計ったが、双方気荒のもので、いよいよ滝野の部屋人夫数名、佐々木の部屋人夫等合併して恵比寿町へと押出し竹内亭の裏手へ廻り同家を打ちこわすなど、小戦争となった。数は双方で5、600名に及び、一時は大騒ぎであったというものである。
 以上の記事を見る限り、滝野組と佐々木組という2大ステベの人夫「五、六百」名が、些少のことにいいがかりをつけ、荒し回ったとしか思えない。やくざと何ら変わりがない。確かに木下宏平の記憶される大正昭和時代は、そうであったにしても、この滝野組、佐々木組の傍若無人ぶりを見ると、明治時代は別であったようだ。また、滝野善三郎、佐々木市造とは関係のない底辺で暴力団とのつながりがあっても不思議でない。
 その証拠を函館建設業界史の『道南の槌音』が提供する。次の記事がある。「函館には、明治年間森田常吉という博徒がおり、沖仲仕の元締めをやっていたが、常時数十名の乾分をかかえて、羽振りをきかしていた。主として函館港で船の荷あげの采配を振るっていたが、時として土木工事への人夫供給にも手をかした。明治四十三年一月から三月にかけて当局の博徒一斉取締があり、森田一家は函館、小樽、その他でほとんど全員検挙された。一家は事実上、解散となったが古川が真砂町で露店商の元締となったり、長万部、国縫、今金あたりにも、明治四十三年の検挙で散らされたの代貸し連が住みついた。彼らは沖仲仕をしたり土木工事に手をかしたり、時にはあちらこちらの河川改修や、災害復旧に出張って生計をたてていた。大正に入ると、さすがバクチ打ちを表看板にすることは、はばかられるようになり、次第に土木請負業に変身していった」。
 「暴力団なき函館港」は、大正以来の状況をさしているようである。明治時代、人夫請負業の人夫部屋ではバクチ打ちが支配、あるいは巾を利かしていたと、考えられる。